Interview #01
 
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Q. 朝市をやりながら、
本業の問屋業も再開したのですか?

―もともと卸をやっておられる橋詰さんですが、問屋業のほうは?

橋詰:気仙地区のお客さんがずいぶん流されてしまって、もともと200~250店舗取引先があったのが、ふたを開けたら40店舗ぐらいしか残っていなくて。「あれ、どうすんべ」と。

―そうでしょうね。最初は残っているお店に卸すことから始められたんですか?

橋詰:そう。でも流通が全部止まっちゃったから、ここから先にモノを持って行けないんだよね。そうなると津波で無事だったお客さんも売る物がないからシャッターを閉めちゃう。それを見たときに、やっぱりモノを流通させなければ、何とかしなければと思った。これは問屋としての使命だよね。

―問屋の使命。

橋詰:だから会社自体は4月17日に再開したんだよ。でも、それだけでは経営は回らないので、ウチも朝市に出店したわけ。で、それまでウチで扱っていたのがお菓子とか調味料とか、インスタントとかが多かったんだけど、朝市では野菜や肉の需要があるから、盛岡の中央市場に行って頭をさげてなんとか野菜を提供してもらって。それから、肉、魚と扱うようになって、それが今につながってる。流通の仕組み上、問屋が小売をやるなんて、本来あってはならないことだけど、周りに何も失くなってしまったからね、やらせてもらえてる。

Q. *未来商店街」を立ち上げることになったのは?

―橋詰さん自身も出店した朝市が終わって、9月以降の動きは?

橋詰:そう。朝市のほうがそろそろかなっていう頃、「もっと人通りのある場所で続けたい!」「とにかく売る場所が欲しいから、一緒にやってくれ」という声が次々出てね。「じゃあ、」というわけで、*MAIYAさんの社長にお願いして、新しくオープンしたMAIYAの隣を借りて商店街をつくろうということになった。で、どうせ商店街にするなら、色味のない被災地のイメージに「色彩」を持ち込んで気持ちを晴らせたいと思って、デザインが自由なコンテナを使おうと。当時はコンテナって持ってくればすぐ始められるだろうと思っていて、みんなも「いいよね」と言って帰って来たんだけど、「じゃあ、どうやってコンテナを探すか」という話になり…。その辺からだな、辛かったのは。

―コンテナ探しが大変だった? 何が一番辛かったんですか。

橋詰:コンテナ探しもモノが集まらないのも大変だったたけど、やっぱり人と人というところで一番苦労したかな。出る杭は打たれるんだよね。「だったら、やればいいじゃん」って思うけど、でもやらない。だから、すごく我慢していた時期。
一方で、4月17日には再建していた会社のほうも相当「やべえよな」という時期でもあったし。問屋業は卸先がないと成立しないのに、被災したお客さんがなかなか復活できない。先が見えなくて不安になったのと、商店街がなかなか立ち上がって行かないのと、それらが一気に来てしまって体力的にも精神的にもかなり辛かったね。11年の11月、12月頃は。

―それはもう切り抜けた?

橋詰:切り抜けた、切り抜けた。それで、その頃の自分たちを奮い立たせたのは、被災地インターンシップの受け入れだったのよ。

―え、そうなんだ(笑)

橋詰:そう、笑っているけど。本当に。短期間でも人を一人預かるという責任感もあるし、ましてやわざわざ愛媛から原発を越えて被災地に送り出す親の気持ちを考えたりするうちに、「人として原点って何だろう」というところに立ち戻って…。そういう問い掛けを続けていくと「ああ、そうだったよな」と気づくことがたくさんあってね。それですごく助けられたよね。

―ヒトを預かるって、なんか、すごくエネルギーを使うイメージがあるけれど、逆にエネルギーが湧いてくるという…

橋詰:もらっちゃったよね。エネルギーをもらって、落ちていく自分たちが徐々に上がっていって。その頃、朝市で売っていた野菜販売を自宅に移していたんだけど、例えば「今はこういう現状だから、自分たちのしたいことが、なかなかできない」と説明すると、「じゃあ、やりましょうよ!」と言ってコロッケをつくって、それがきっかけで「水曜コロッケDAY」が出来たり。背中を押されたね。


水曜コロッケDAYのコロッケ(チーズ 130円、ツナマヨ 130円、かぼちゃ 100円、ポテト 80円)

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「橋詰 真司」さんと「友廣 裕一」さん

橋詰さん、問屋からお惣菜屋への意外なシフトチェンジ、その理由は?(友廣)

橋詰さんのお店はこのあたり

橋詰さんのお店、和笑輪までの地図

 

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