Interview #06
 
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Q. 後を継ぐため迷わず修業。しかし震災前に「菅久」5代目が下した決断とは?

― 稼業を継ぐと決めたのはいつ?

写真:池内さん

菅野:高田小学校にはいって、1年か2年の文集に「大きくなったら何になりたいか」という質問があったんですけど、おれ「菅久の社長」って書いたんです。その文集、流しちゃったのでもうないですけど。

― そうなんだ、ご両親は非常に嬉しかったはずです。

菅野:嬉しかったんですかね。でもみんな、親せきも、お菓子屋を継ぐとは思わなかったみたいです。中学までは生徒会長とかもやったりしてたからか、市役所に入ると思われていて。自分は決めていたので、高校に入学したら早々に「継ぐよ」と宣言して、卒業後すぐに仙台の「ドゥーブルマロン」という洋菓子店に就職しました。最初の1年は修業がつらいし遊ぶ暇も全くなくて、ホームシックで泣いてましたけど、今は、あの時期があって良かったと思います。耐えることを学びましたしね。
ただ、3年間の修業中に同じ店で嫁さんをみつけちゃいまして。

写真:修業時代の菅野さん修業時代の菅野さん

 

―(微笑)

菅野:修業中にそんなことになったので、店に居づらくなって、別の店に移ることになりました。次に移ったお店は、夫婦2人で2店舗を経営する小さなケーキ屋さんで、いろいろ任せてもらえたので、すごく良い経験になりました。その日の店の在庫をみながら商品をつくる、タイミングの決め方とか、この時に勉強したことが、今の経営に役立っています。

2000年の夏、おやじが「そろそろ帰ってこい」というので、この店を退職して、長男と家族3人で実家に戻りました。「菅久」では主にケーキをやるつもりでいたんですけど、丁度和菓子をやっていたおじが体調を理由にリタイアするというので、同時に和菓子を習ったりもしていました。店は大町と駅前に2店舗、家族8人で切り盛りしていたんです。今思えばいい時期だったと思います

写真:菅野さん

― そう、高田に戻ったんだね。それから?

菅野:2006年11月におやじが突然亡くなりまして、いきなり経営者となったのですが、いざふたを開けてみると、ひどい経営状態だということが分ったんです。
お得意さんもいて、そこそこの年間売り上げはありましたので、商売をやっていけないことはなかったんですけれども、うちのおやじが、人がいいもので、保証人とか、そういうものがいろいろあって、かなりの借金があった。

それでも何とかやっていけるだろうと、事業継承をして、相続もして5代目となりました。従業員を削減して、家族で頑張って4年くらいは返済も順調にやっていたんですが、2010年に保証がかぶさりまして、これ以上借金持つのはつらいと、いったん店を閉める決断をしたんです。
この時、私は一切合切を処分し、2011年4月から蔵王のほうのお菓子屋さんで働くつもりで、面接に行ったりしていました。そっちで働いて、女房と細々と借金を返していこうと。 ところが、うちの弟が、「いや、大町の土地は売りたくない。おれが買う」と言うので、「お前にその覚悟があるなら」と、実家の土地と借金のことは弟に任せる相談をしたんです。2011年3月18日には、銀行さんで土地売買契約などの各種手続きを済ませて仙台へ出るつもりでした。

でもその1週間前の3月11日に津波が来て、頼りにしていた弟まで流してしまった。

― それは歴史が、出ていくのがいけないと決めちゃったということだな。「君、高田を出ていったら駄目だよ」と。

菅野:そうかもしれないですね。

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