Interview #06
 
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Q. 「115年の老舗が残っている姿を見せることは、おれの仕事だ」と店を続けることを決意

― 菅久のあった*大町の商店街は?

菅野:私の家の向こう三軒両隣で、人的被害が無かったのは、うちと、「いわ井」さんぐらいです(弟は所帯別)。
同級生で、あの日も消防団活動を一緒にしていた、同じく大町のお寿司屋さんが居たんです。彼が結婚する前は、いつも2人で飲んでいた親友なんですけど、そのお寿司屋さん一家も、彼を含めお父さん、お母さん、兄、妻、子ども2人、一家7人全員亡くなられました。
津波警報があったとき、そいつは嫁さんを待っていたんです。彼は(高台の)鳴石に、アパートを借りて住んでましたが、嫁さんがすぐそこのハローワークに臨時で勤めていたので、こっちにくるのを待っていました。私は「待ってないで、とにかく先に逃げてろ、嫁さん来たら、おれらと一緒に避難するから、子供たちと先に鳴石に行け!」と声をかけ、彼は渋々、車を走らせました。
その直後に津波が来たんです。私は走って逃げたんですけど、彼らは車で行きましたから、途中渋滞に遭い、流されたんだと思います。

翌日から、救助、遺体捜索、搬送の活動をしていましたが、私はガレキに足を突っ込んで、ケガをしたため、遺体確認の役を任されました。お客さんと接する商売をしてたんで、辛いんですが適役だったのかも知れません。警察の方の手も回らない状態でしたから、少しは役に立ったと思います。
その後、数々のご遺体を見ましたが、彼の遺体を、数日後に見た時に一番泣いたんですけど。さらに数日後、彼の嫁さんのご遺体も見つかり、別々の安置所だったんで、警察にご無理を言って、隣同士にして貰ったときのことを、鮮明に覚えています。

写真:震災前の大町商店街菅久のあった、*大町商店街。右手に*「いわ井」が見える。

― 弟さんも、見つかるまでに随分かかったね。

菅野:ええ。家族は仙台に移ったんですが、「弟が見つかるまでは、どこにも行かない」といって仙台と高田を行き来する日々が続きました。
弟は亡くなる前、結婚したばかりで「大町の家を買ってリフォームして住む」と言っていたんですが、要は、実家を残したかったんでしょうね。たまたま被災していない電気屋さんがその設計図を保管していたんです。それを見ると、家が前面じゃなくて奥に位置していて、通りに面した方には店の鉄骨部分を残してあったんですよ。いつ帰ってきても店やれるように、という感じの建物だったんですね。

それを見て、弟が私以上に「菅久」のことを思っていたんだなというのが分かって、これでおれが「やめる」と言ったら、ほんとに弟に対してだけじゃなくて、ご先祖さまにもこれまで「菅久」のお菓子を待っててくれたお客さんに対しても失礼だと思って。

写真:菅野さん

― 亡くした人の想いを引き継いで「菅久」は復活する。

菅野:はい、店を続けようと、決めました。 「115年もやってきた」老舗がこの地で残っていることを見せるのも仕事だと思うんです。高田を出ていった人にも、「菅久さん、まだやっているんだな」と思って、それを目印に時々帰ってきてもらったらいい。そしてまた都会に戻るときに、うちで何かお土産を買っていってくれれば、それが一番いいんです。

大町という行政区でいくと、70世帯で180人ぐらいの構成員がいたんですけど、80人ぐらい亡くなりました。約半分、45%ぐらい亡くなっているから、大町としては、コミュニティは復活できないだろうな思う。だから、住民票を残したかった。1人でも人口ですから。それが、高田に残るということを決めたもう1つの理由です。

出ちゃった人はしょうがないです。それだって、生きるための勝負ですからね。でも、その人たちが、60とか70になってリタイアしたときに、「もう1回、高田に戻っかな」と思ってくれるのが一番いい。帰ってきたいと思われるぐらい魅力のあるような陸前高田にしていきたいですね。そのために、私が出来ることはお菓子、お菓子屋をやるということなんです

写真:菅野さん

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