


―20代で東京から帰ってきて店を起こそうって、すごいじゃない。普通、帰ってくるといったら、結婚か男に破れたか、でしょう?
菅野:男、ではないです! 震災があってから初めて高田に足踏み入れて、高台にある実家から高田の街を見下ろした時に、何もなくなっていて、その時、私に「何かできることはないだろうか」と思ったんです。
想いを抱えたまま東京に帰ったんですけれども、心のどこかにずっとわだかまり的なものがありまして…。夏くらいですかね、お母さんと電話でいろいろ話をしたりして、この際、その想いを形にしよう、とそう決めて。東京からUターンをしてこちらでお店を出すことになりました。
未来商店街にある、菅野さんのお店「Laugh(ラフ)」
―何月に帰って来たの?
菅野:2012年の4月に帰ってきました。まだ1年たってないんです。
―もともとファッションが好きだった? 高校の時はどんな学生さんだったんですか。
菅野:いつも騒いでいて、うるさい女子高生だったと思います。ファッションへの興味はふつうに3、4割くらい。あと部活でバスケもやっていましたが、そんなに真剣でもなかったですね。私、社会人になってから、気づいたんですけど、自分はチームワークが苦手だったんですよね。チームワークって、調子よく意見を合わせながら、裏で何かネチネチした感じがあるというか、何ですかね、上手く説明できないんですけど。 だから社会人になっても「組織」とかいうことがすごく苦手で。今私、自分で起業して良かったなとつくづく思います。
―なるほどね。起業すれば一人で全部、と。
菅野:そうですね。責任があるので一つ一つの仕事に対して手を抜けない。全部が自分に返ってくるので。判断も早いですしね。そういった部分で、組織に属さず一人でやっているほうが楽だなぁというのはあります。
―経営の楽しみというのは、そこだけだからね。責任は全部自分にかかってくるけど、全部自分で決められる。ところで、アパレルで人事教育もしてたそうだけど、どんなことをやっていたの?
菅野:本当に当たり前のことなんですよ。仕事そのものではなくて、その人のモチベーションを上げたり、人を信頼したり信頼してもらったりという関係をどう築くかとか、そういうことで。
高校を卒業してから東京に出て、アパレル業界に就職したんですけど、まだ20歳の頃に社員教育をやれって言われて…。
―自分より年上の社員を教育したりした?
菅野:はい、敬語を使うべきどうかですら悩んだりしましたね。人を教育したことのない人間が、急に教育しようとしても、それは大変で。だから、上から言われて何もわからないままやっていたというところがありますね。
―その後、盛岡に転勤になったんだっけ? 何してたの?
菅野:盛岡でも、マネージャーとして人を教育していました。それもすごく年上ばかりで。そもそも嫌々やっていたので、自分より5歳上の人が常識がなかったり、サボリ癖があったりするとイラついて仕方なくて。苦労しました。思えば、私はその人にちゃんと向き合っていなかったということなんですけど。
―きっと、まじめなんだよね。というか、東北の人って僕ら四国の人間から見ると、基本的にまじめだね。
菅野:たぶん不器用な人が多いんだと思います、東北は。遊びと仕事の切り替えが上手くできなくて、全部真剣にやってしまう。私もそうですけれども、1つの事にのめり込んだらそればかりずっと一所懸命にやっていて、切り替えが苦手。遊びも仕事の1つと言うじゃないですか、そういう余裕がないような。自分にもそういう部分があって、嫌なときはあります。
―何か得たものはある?
菅野:私に教育は向いてないなという(笑)
平成24年、内閣府の「復興支援型雇用創造事業」に菅野さんのオリジナル石けんの事業アイディアが選ばれ、池内さんは「支援メンター」として紹介される。経営はもちろん服飾デザイン全般にも通じる池内さんは、菅野さんにとって、心強い相談相手。