


―里美さんは、今はこちらに住民票を移していますよね。陸前高田には、どうしてかかわることになったんですか。
当時の中野さん
中野:もともとは兵庫県出身で、東京でずっと働いていました。地震があった時は、ソシオ エンジン・アソシエイツという会社で、内閣府の「インターンシップ事業」を担当していたんですけど、メンバーの中に宮崎の人がいて、口蹄疫でお世話になった恩をお返したい、九州、広島、愛媛で募集するインターン生を東北にボランティアとして行ってもらったらどうか、という提案があったんです。内閣府に相談しに行ったら、「それはぜひやりましょう」ということで受けてくださって。
早速、インターン生の受け入れ先を探して、仙台、東松島、気仙沼に行き、最後に行き着いたのが陸前高田でした。
そこで紹介されるままに、お会いした方々が、高田ドライビングスクールの田村さん、八木澤商店の河野さん、長谷川建設の長谷川さん、橋勝商店の橋詰さんという、地元中小企業の社長さんたちで、後になつかしい未来創造の最初の役員になる人たちだったんです。
前列左から橋勝商店の橋詰さん、高田ドライビングスクールの田村さん、八木澤商店の河野さん。
―同じ日に出会ったの?
中野:はい、5月15日だったと思います。偶然同じ日だったんですが、別々にお会いした方々に、同じことを言われるんですよ。「ボランティアはいいから、目的を持って、インターンシップとして来い」って。「自分たちも、そういうエネルギーでもう1回立ち上がろうという気力がわいてくるだろうから、若い人たちが自ら目的を持って来てほしい」って。
―震災が起きて、人手はそちらに回さなければ!と考えたのに、被災地の方から「人手じゃないんだ、欲しいのは」と言われたんですね。
中野:はい、衝撃的だったのと同時に、「ここだ」という出会いを感じました。急いで準備をして、最初のインターン生を受け入れたのが6月末です。受け入れてくれた社長さんたちが「中小企業家同友会」という経営者の勉強会でつながっている、ということを後になって知るんですが、インターン生を受け入れることが、「自分たちの勉強になる、学びになる」という姿勢でいらしたことにも感動しました。
―立派だし、強いですね。
中野:ほんとうに。
―5月に受け入れ先を探しに来て、東京にはずっと帰らなかったんですか?
中野:正直言って、私も最初はこんなに入り込むつもりはなかったんですが、何もない被災地でのプロジェクト運営には難しいことがたくさんあって、常に手が足りない状態でしたから、私たちもいつの間にか現場に入って、そのままずっと。
大津波から4か月、まだどこも大変な状況で、インターンシップもちゃんとした形を作れていたわけではありませんでした。事前に何の打ち合わせもできないままインターン生を連れていったら、ある社長さんに「ほんとに来ると思わなかった」と言われたことも。
毎日、「こんなはずじゃなかった、想像していたのと違う」と、誰もがそういう状況でした。でも、インターン生たちはそれを軽々と乗り越えてくれたんですね。毎日、八木澤商店や、自動車学校さんの農業部門、橋勝商店にインターンに行って、戻ってきては宿舎でずっと興奮してしゃべっている。
―すごく大きな刺激でしょうね。大震災があって、その中で必死に生きている経営者たちのそばで。
中野:私たちも、インターン生も、自動車学校の寮に寝泊まりしていたんですが、社長さんたちも毎晩のように、宿舎に来て、話をしてくださるんです。「人生とは」とか、「今、自分は建物を建てる会社の社長をやっているけれども、まだ全然仕事をしていない。壊してばかり。どういう気持ちか分かるか」とか。震災のことだけじゃなくて、たわいない話、恋愛の話とかも含めて、人と人が、真剣に向き合う、そんな現場だったんです。
―生々しいですね。
中野:はい。ある時、インターン生が「ここに来ると、どこに行っても自分の居場所があって、ここにいていいんだと思う」と言ったのをよく覚えています。最初は、居場所がない子なんだな、と思ったんですけど、そうじゃなかった。高田の社長さんたちは、仕事ができるからとか、優秀だからだとか、偏ったところで人を見ていなくて、まずは、まるごと受け入れてくれるという、そんなところがあると思うんです。
―その人たち、ラッキーですね、来られたインターンの人たち。
中野:そうですね。いまだにずっとつながっていて、フェイスブックで同窓会のグループができていたりします。やって良かったなと思うところですね。
長谷川建設の長谷川さんとインターン生達