Interview #09
 

前は嫌いだった「デザイン」の仕事をして
ワカメとかリンゴとかをもらえてしまう。
それってどんな感じ?(中村)

インタビュー:2013/04/22
インタビュアー 中村健太さん 石巻とか陸前高田で、「宵越しの金は持たない」まではいかないにしても、執着がなくなった、と。 種坂奈保子さん 何であれ、それはたまたま手元にあるけれど、いつでも誰かにあげてもいいものだ、みたいな感覚があるんです。 中村 健太(なかむら けんた)さんのプロフィール 種坂 奈保子(たねさか なおこ)さんのプロフィール
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Q. 高田の土産物屋さんの前身は愛知県出身の店舗デザイナー?

―震災のあった年に愛知からでてこられたんですよね。今はどんな仕事をしているんですか?

種坂:岩手県から陸前高田の地域振興株式会社に配属されていて「いわて復興応援隊」のメンバーとして*陸前高田物産センターで働いています。一本松からほど近く、陸前高田の商品が一番集まっているお土産屋さんでレジ打ちをしています。
トイレ休憩と買い物で観光バスが入ってくると、2台で80人とか来るじゃないですか。小さいトレーラーハウスなので、ぎゅうぎゅう詰めになって皆さんワサッと買っていく間、ひたすら、「ありがとうございます!」とやっていますね。

写真:陸前高田物産センター種坂さんが働く、陸前高田物産センター

―前に「みちのく仕事」でお伺いしたことと重なるところがあるけれど、なぜ陸前高田に来ることになったのか、聞かせてください。

種坂:5年以上前になりますが、大学3年生の頃、一人旅で陸前高田に来たのが最初です。
8月7日の「*けんか七夕」という祭りが面白いとインターネットで見て、一本松の後ろにあったユースホステルに泊まったんです。お祭りの帰りに歩いていると、バーベキューをしていた消防団の人たちが、「ねえちゃん、来い、来い」とか呼んでくれて、「焼き肉食べろ」「ビール飲め」と。京都の大学に通っていたので、「京都から来たんだって。気に入った」って、すごくもてなしてくださって、もう、めちゃくちゃ優しかったんです。
その思い出があったので、震災の報道で「陸前高田壊滅」と出た時に、「あの人たち大丈夫かな」と気になっていました。 震災のころは、ちょうど仕事を辞めたところだったんですけど。

写真:種坂さん

―辞めた仕事というのは、どんな?

種坂:名古屋にある、全国で飲食店を1,000店舗くらい経営している会社があって、そこのデザイン室にいました。新規オープンする店舗のデザインとか、各店舗のディスプレイデザインだとかを担当する部署にいたんです。辞める前の2ヶ月半位は、上司が変わったり、人が辞めて仕事がぐちゃぐちゃになったり、があって、激動の日々だったんですけど、それが2011年3月1日に「部署を解散します。3日までに辞めるか子会社に行くか考えてくれ」と言われて。

―え、そんなことが。でも子会社には行かなかった。

種坂:すごく悩んだんですけど、近所でお店をやっていたおじさんが、「悩んだときは大変なほうに行ったほうが絶対いいよ」みたいなことを言ってくれたんですね。正直なところ、もうデザインすることが嫌になっていたので、デザイナーをやめて、見えない方に行ってみようと思っていました。それで、それまでいた会社の寮を出て、田舎に戻ることにして。震災があったのは、ちょうどその頃です。

―それで陸前高田に行こうと思ったんですか?

種坂:いえ、高田にたどり着くのは半年以上あとのことです。田舎に帰って「人生の春休みが来た」とばかりにダラダラしていた私のことが、うっとうしかったんでしょうね。親に、「今、東北、大変なことになっているんだから、ボランティアにでも行きなさい」と言われたんです。「いやいや、まだ、私が行けるところじゃないし」と思っていたんですけど、NPOで現地にいる知り合いが、毎日メールマガジンで「どんな地味な作業でもやれる人が必要だ」と訴えかけていたので、それじゃあ行ってみようか、と、3月末にそのNPOがいた石巻に入りました

―震災からまだ1ヶ月も経っていない頃ですよね。

種坂:はい、そこら中で車はひっくり返っているし、町中泥だらけだし、家が道路の真ん中にあったりして、まだ温かいものを一度も食べていないという人がいる頃でした。倉庫の管理をしたり、物資を運んだりの活動をしながら、陸前高田はどうなっているんだろうと気になったけど、当時はまだ、気仙大橋も通っていなかったので、自分で行く方法がなかったんです。

―それからどうしたんですか?

種坂:最初は4日間のボランティアの予定で、一緒に行った人が4日で帰らなくちゃならなかったんですけど、これは、私が愛知に帰ってハローワークに行って普通の仕事を探して働いて、という場合じゃないなと思って、「置いて行ってくれ」と言って残ったんです。 自分が何か食料を運べば、そこに居る人が確実に私が運んだものを手に取れる、というサバイバルな状況にショックを受けすぎていて、帰ってパソコンをたたいて事務をするとか、そういうことが、全然考えられなくて。で、居残ったんです。
石巻には半年ボランティアでいたんですけど、お金もなくなっていくので仕事を探していました。とはいえ、現地の人の仕事を取りたくなかったので、外から役立つ人を募集していた、ETIC(NPO)の*「みちのく仕事」の右腕プロジェクトを紹介してもらって。で、募集内容を見た時に「陸前高田があるじゃないか」と。

写真:種坂さん右腕プロジェクトで活動していた、当時の種坂さん

―そこでやっと、陸前高田につながるんですね。

種坂:はい。実際に来てみたら、けんか七夕のお祭りに参加した場所も、バーベキューした場所も全部なくなっていて、あの時声をかけてくれた人たちの消息が気になりました。でも、そのときの私には、調べるあてもなかったんです。

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