Interview #03
 

北海道から移住してきて、高田で「リンゴビール」?
またうさんくさいことを。
ほんまのやる気を聞かせてよ。(畦地)

インタビュー:2013/02/17
谷沿 裕紀 さん 気が付いたら荷物まとめていましたね。バカでしたね。 インタビュアー 畦地 履正 さん バカじゃないと思うよ。おれはいいと思うよ。谷沿 裕紀(たにぞえ ひろき)さんのプロフィール畦地 履正(あぜち りしょう)さんのプロフィール
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Q. 高校時代はインターハイ選手でDJでバーテンダーもやっていた?

―谷沿くんは北海道から陸前高田に移住してきたわけだけど、ちょっと聞くと、谷沿という名前は高知が由来らしいね。

谷沿:僕のおじいちゃんの父親が、高知県から北海道の北見市のほうに移住して農家をやりだしたのが僕の家の北海道でのルーツらしいです。僕は幕別町という、ちょうど人口も陸前高田に似て、2万人ぐらいの町で生まれました。冬は−20℃くらいいってしまうような内陸の町ですね。

―子どもの頃はどんな子どもだった? たとえばマイブームって何?

谷沿:小学校5年生から卓球を始めて、卓球で札幌の高校に入って、インターハイで四国の香川県まで行きました。僕、メモ癖がすごいんです。卓球ノート」っていうのをつけていて、強い高校生の選手の名前とか調べてどうやって勝つか作戦を緻密に考えるのが結構好きで。それから音楽を聴いていましたね。高校時代から、クラブみたいな所でDJをやっていました。そういうサブカルチャーにすごくハマった時期がありましたね。

―高校時代、卓球でインターハイまで行った。しかもDJ。ブイブイやな。
そういうのはどうやって始めるの?

谷沿:僕、友だちで集まるのが好きなんですね。卓球は友達の子が近くのスポーツセンターに行くので一緒に行ったら、その時の指導者に「おまえ、やってみろ」みたいな感じで1週間後には大会に出されて、間違って1回戦を勝ってしまって調子に乗ったのがきっかけですね。DJも同じで、仲間うちにストリートダンサーみたいなのがいて、その子の影響で最初聴いたカセットテープに衝撃を受けて、卓球に対する執着心が、今度音楽やサブカルチャーに変わってくる。

―谷沿の場合は、衝撃を受けるということがテーマかもしれんな。大学は?

谷沿:行ってないです。高校卒業してJR北海道に就職しまして。卓球の実業団で全国大会に行ったりしながら、札幌駅のみどりの窓口で切符を売っていました。JR北海道には6年勤めるんですが、選手として在籍していたのは3年ほどです。それと実は、会社に内緒で、当時、札幌でバーテンをずっと、アルバイトでしていたんです。お小遣いがなかったわけではなくて、サブカルチャーにすごくハマってしまって。酒を飲んで話すと、人の見えていない部分が見えてきたりとか、そういう世界にどっぷりつかっていっていましたね。

―6年間勤めたJR北海道を辞めて、その後、どうした?

谷沿:24の時にJR北海道を辞めて、そこからが僕のどん底人生で、ほんとにサブカルチャーに身を投じて、「すすきの」に移ってくるわけです。バーというよりは少し質のいい飲食店のような所で働いて、そこで*中田源(はじめ)と知り合うんです。お酒を出したり、音楽関係のイベントを自分たちで作ったり、フライヤーやポスターを作ったり。

―それは、経営していたわけではなく、雇われね。

谷沿:そうです、雇われです。2年ほどそこにいましたがなにせお金がなかった。フルで働いても、10万円もいかない中、家賃とか携帯代とかも払って、休みの2日間は、自分で企画したイベントでDJをやって、稼いだお金を自分のお店で使うという水商売。そんなじゃ食っていけないからって、昼間は札幌で流行ったスープカレー屋さんで働いて、その店のまかないが、僕の1日の食事だった時期もあります。

―震災にあったのはいつ?

谷沿:実は、「すすきの」で2年ほど働いたころ、ある日祖父が交通事故で亡くなってしまうんです。僕、小さいころ、祖父に育ててもらったので、祖父をすごく尊敬していました。祖父にとっても、僕はJR北海道で働いている自慢の孫だったはずなんです。それで「すすきの」の飲食店でやっているよとは言えなくて、唯一、祖父にはウソをついてしまっていたというか、そういう後悔がありました。その頃、友人のススメもあって、DJを辞めて小樽カントリークラブというゴルフ場で働きはじめるんですが、祖父も、亡くなる前は幕別町のゴルフ場で芝の管理をする仕事をしていたんですよね。
で、そこから今度は、朝4時起きの昼の生活です。夏場はゴルフ場、冬場はスキー場の仕事という感じで何年か勤めるうち震災が起きました。

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谷沿さんはこんな声の人(15秒)

ふたりの馴れ初め

平成24年、内閣府の「復興支援型雇用創造事業」に選ばれ、起業を準備中だった谷沿さんに、「支援メンター」として紹介されたのが、畦地さん。谷沿さんにとって、畦地さんは四万十の地域活性化ビジネスを成功させた、あこがれの人。

谷沿さんの高田までのあゆみ

谷沿さんに会えるのはこのあたり

米崎町付近の地図

 

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